2021-06-13 Sun
近頃、やりたい事とやらなくてはいけない事が多くて、「なんか、もう疲れたな。」
と思うことがある。
それで、全て放擲して何もしないでいると、何もしないでいる事がひどく苦痛になってくる。
そうしたらまた、のろのろと起き上がって何かをやり始める。
日常っていうのは、誰しもがそういったことの繰り返しではないだろうか。
人生っていうのはひどく面倒なものだ。
自分や他人や自然や都市に翻弄されながら、喜怒哀楽を限られた時間に縫い付けて、つぎはぎだらけの不格好な布を仕立て上げる。
それは「自分でしか作れない」という独創性を持った美的側面を多く含むというよりは、むしろ赤裸々な自己嫌悪と自己自己憐憫の成果なのだ。
それでも大人になってくると、少しずつわかってくる。
「人生っていうのはひどく面倒なものだ。」
基本的にそういうものだという気概で物事を捉えると、頻発する理不尽や暴力や不条理に心を揺さぶられることも少なくなってくる。
それで、それぞれの人生における「ちょっとした悟り」というようなものを見出したりする。
「ちょっとした悟り」。
「悟り」っていうのは、別にヒマラヤで修行をしたお坊さんや、生涯処女を貫いた修道女だけに訪れる類のものではないのじゃないか。
というか、誰しもに与えられるものでなければ、ずるい。
僕が見つけた「ちょっとした悟り」は、「ある」という今の状態が、すでに善だし、救いだし、非暴力的なんだということだ。
面倒な人生だけれど、「ある」日常は「ない」日常よりチャンスがあるし、豊かだ。
この世界は誰がつくったのか、誰がつくった訳でもないけれど、ただ続いているのか。
それは分かり得ないが、「ない」状態というのは旅立つための乗車券すら与えられていない。
「ある」日常はすでに与えられた状態なんだ。
だから、時に面倒だと思われる人生も、何にせよ「ある」人生なのだから、嬉しいものなのだ。
なんだか纏まりのない文章だけれど、体裁よく整えないこともありだぬーん。