2021-02-14 Sun
いろんなところで買い物をすると、品物は包装紙というものに包まれている。最近では大手のスーパーやコンビニなどでも、ビニールの買い物袋の必要有無が選択できるなど、ごみを減らす取り組みが広がっている。
ゴミというものはそもそもなんだろう。
ゴミの由来について調べると、元々農家が「木の葉」をゴミと呼んでいたことが語源らしい。
それが近代において、役に立たないものという意味で色々な物の総称として使われるようになったとか。
では、いつからゴミという認識が生まれたのか。
少なくとも、文明開化前の人類にとって元々ゴミという概念はなかったのだろう。
いや、マンモスを倒す銛が古くなって使えなくなったら、「ゴミ」として捨てていたかもしれない。
それでも、現在の僕たちの捉えているゴミの感覚とは違う物だったはずだ。
僕たちの「ゴミを捨てる」という感覚は、「抹消する」とか「奥深くに半永久的に隠す」みたいな感じが近いのではないか。
でも猿人類たちはもっと自然な、「投げる」とか「放っておく」みたいな感じだと思う。
もっと言うと、「自然に還す」か。
これは直感的な意見だが、現代人は環境に対する予備知識があろうがなかろうが、本能的に現代の感覚として捉える「ゴミを捨てる」行為に対して、無意識にストレスを感じていると思う。
それが子供であっても。
だからゴミが多くなればなるほど、捨てるストレスを抱え込むことになる。
一度持ってしまったものは、捨てなければならないから、そこで発生するストレスは通過儀礼として受け入れざるを得ない。
要はゴミを増やさないには、持たないに越したことはない。
まあ容易くそれが出来ればよいのだけれど。
それでも、物質的なゴミについては、ゴミ置き場に置いておけば清掃車が来て焼却場へ持っていって捨ててくれる。
では、心のゴミはどうだろう。
これは自分で処理しなければ、誰も持っていってくれない。
しかもこれは、中々燃やしても燃やしても、燃えてくれない不燃ゴミである場合が多い。
さよならするコツは、やはり先人に習うべきかと思う。
抹消しようとか、隠し通そうとかいう意識ではなくて、自然に還す。
何処かからやってきた感情が自分の中で行動や衝動を生んだ。
それもやがて過ぎ去って、体を抜けていき、土や空に帰る。
そうして自分と世界が残っている。