2023-06-22 Thu
先日、3年ぶりに施設に入っている祖母に会いに行った。最後に会った時から更に、認知症が進行していて、僕のことも忘れているかなと思ったけれど、おぼろげに憶えていた。
近い時間の事は忘れてしまいやすいみたいで、数分の間に何度も同じ質問を繰り返す。
それでも、昔の事はかなりよく憶えていて、田舎の竹林の筍がよく取れる場所や、近くの気の利かない人の事などを話す時は、症状があることも忘れてしまうほど明晰だ。
昔から体がしっかりとして、気丈夫で、明るい人だったから、まさかこんなに、小さく丸くなってしまうとは、想像できなかったけれど。
次に会う時は、まだ憶えていてくれるだろうか。
もし憶えていないとしたら、不思議な直感を感じてくれるだろうか。
「元」血縁者として。
せっかちな人だから、きっと輪廻転生を待たずに、今世の記憶を無くして、次の人生の準備を始めたのかも知れないな、とも思う。
「あの世がそこで待っているよ。」
と話の途中に、何度も窓の外を覗くように見ていた。
帰り際、また同じことを言うので、
「あの世でおじいちゃんに逢えるかもね。」
というと、
「会えないよ。」
と照れた様子で答えた顔は、嬉しそうだった。

2023-06-05 Mon
時間について、もし時間というものがないとしたら。そもそも時間ていう認識はいつから始まったんだろう。
旧石器時代に生きる僕たちの祖先(と言われている)は既に時間認識があったのだろうか。
wikiによると「暦が使われたのは最終氷期の狩猟採集社会においてであり、棒や骨などを使って月の位置と満ち欠けを観察したのが始まりだった」とある。
けれど、これは「時間は進んでいる」という認識を持っていたかは別の話になりそうだ。
僕たちが「時間は進んでいる」と認識するのは、やはり記憶の蓄積による判断なんだろう。
20年前の冬は、北海道に居た。
10年前の夏は、沖縄に居た。
そして今年の春は、山梨に居る、というように起きた事象から現在までの経過を捉えて、過去として認識している。
何もこんな事つらつら書き出すほどのことではないのだけれど。
ひとつの乱暴な仮説として僕はこうも思う。
まず大前提として完全に揺るがないものは「今」だ。
その「今」が過去を刹那的に作り出しているとしたら。
つまり起こったと思っている事柄は、全て一瞬一瞬の僕たちの意識が作り出している。
たまにこんなことがあると思う。
昔遊んだ公園が大人になってきてみると、思ったより小さかった。
これは子供が身体的にも小さく、肉体的経験も少ないので実際より事物が大きく見えていた、という説明もつく。
けれど逆説的に言えば、「子供だから大きく見えたのだろう」という印象をもった過去を、今の自分が作り上げている可能性も0%ではないのだろう。
そう捉えると、少し前に何か建物が建っていた場所が空き地になっていたとして。
それが何の建物だったか、どうしても思い出せない。
もしかしたら、古い仏具商店だったような気がする。
そのイメージをたよりに妄想を膨らませていくと、もはやそこに建っていたのは仏具商店でしかない。
つまり過去は書き換え可能でもある可能性が出てくるのだ。
そんなことを考えていると、未来というのは「今」という現実の瞬間瞬間が作り出す妄想の結果なのかもしれない。
僕はこの何年か、イメージすることは案外簡単に叶うのではないかなと思っている。
実際、そうだからだ。
それは過去も未来も、今という現実に帰結するイメージとして捉えることが重要なのかなと感じている。
すてきなイメージをね。