2023-03-12 Sun
過剰報道が人を殺すこともある。最もらしい顔でキレル子供を憂うより、お前らが頭を冷やせよ。
こういう報道に加担してる者の姿は見えないし、人のことをよく言えたものじゃないが、どれだけ高尚な生活をしてるか見てみたいもんだ。
自分たちが「憂慮すべき社会問題」をピックアップして民衆に「提示してあげている」とでも思っているのだろう。
もっと他に取り上げる問題があるんじゃないか?
お金(生活)のために信念を偽って生きるなら、そんな仕事やめたまえよ。
田舎に行けば、手が足りてない畑仕事はいくらでもある。
あなただって、そんなことするために報道という仕事を選んだわけじゃないだろう。
みんなが平和的に共存共栄する為に有益な情報とか、問題解決の為に広く共有されるべき情報を提供する使命を抱いて仕事を選んだのじゃないのか。
人の好奇心(残虐性とかネガティブな欲望想起)を煽るような事ばかり、いったい誰の指令なんだ。
不本意であるならば、戦うか、それが怖いならせめて逃げればいいじゃないか。
世の中を変えるのは国でもなく、宗教でもなく、政治団体でもなく、自分達一人一人でしかないんだから。
2023-03-07 Tue
人のために生きるというのは、素晴らしいもっともなことである。でもそれには、まず自分が自分を第一として生きることが出来てからでもあると近頃思う。
自分を安心で満たしていなければ、他人に対する奉仕は義務になり、それを受けた者もまた義理を感じてそれを別の人で消化しようとする。
終わりのない恩というボールのパス回し。
いつボールが回ってくるか、うまく人の役に立てるだろうか、気が焦って今を十分に生きられない。
そんな気がする。
音楽にしても、人のために演奏したり創るというよりもまず、自分のためにやるという気持ちだ大事なのだ。
人は施されるよりも、自分本意で生きている人に触発されて、それが結果的に自分のパワーになることの方が多いのではないだろうか。
もう少し人はわがままになってもいいと思う。
2023-03-02 Thu
世界の裏側について色々調べるのは、今の状況を知る上で大事なことだけれど、調べれば調べるほどネガティブな未来しか想像できなくなってしまうのが目下のところではないか。しかし、これでは疲れてしまう。
そういう情報に精神まで染められてしまうと、変えられ得る未来も変えられなくなってしまう。
ある物理学者が言っていた。
この世界は客観的なものではなく、主観的な世界である。
目の前にある机やピアノや色々なものは、近似値として各々個人の目に同じように見えているが、あくまで近似的であり主観的なそれぞれの意識がその細部を形成するとか。
この世界というのは、共有される(スクリーン)仮想現実でありながら、それを覗いている各人によって見え方が違う。
ある人にとってはネガティブな事柄がある人にとっては喜ばしい出来事になる。
そう現実を捉えるならば、目に映ること、聞くこと、体験することに一定の遊びが生まれてくるはず。
例えば、「1.お金がない→2.欲しいものも美味しいものも食べられない」。
こんな流れがあったとして、3つ目の流れは自ら作り出すことができる。
不遇を恨んで八つ当たりして終わるか、今有る環境と材料からベストなものを創造してそれを楽しんでしまうか。
そんな遊びの部分を一人一人がどう捉えていくかで地球の運命は案外ころっと好転するのではないかと思う。
それにはもっと沢山の人の意識の変容が必要だ。
そういった意識を開くために音楽を響かせていくのである。