2020-08-28 Fri
自分や他人、環境や物事に対して、こうであらねばならない、こうであってほしいという日々の思いは、心の底にいつの間にか降り積もっている。気がつけば何年も、何十年も、ということもあるのだ。
そういう偏りを持った「意志」や「願望」は、コンプレックスやトラウマから来ていたりもするし、長い間忘れていて気に留めていなかったような記憶から来ているかもしれない。
良き思い出にしても、悪き思い出にしても、過去は開放されたいのだ。
人との関わり方が変化している今(根本は変わらないけれど)、自分自身に対して自分がどう関わってきたのかを省みたい。
今の自分がする行為に伴って現れる過去の記憶。
その行為は過去の奴隷となっていないか。
誰かが誤れば茶化すのは、自分が茶化されたからではないのか。
物が壊れれば物にあたるのは、物を大切にしなかった自分が原因ではないか。
誰かの意見が間違っていると思うのは、自分が自分の意見を受け入れられなかったからではないか。
そういった一切の記憶から自分を引き剥がして、まったく新しい自分、過去や未来にも影響を受けていない私に「再会」する。
やあ、久しぶり。
元気だった?
僕はこんがらがって。
君に会いにきた。
2020-08-21 Fri
もうすぐで最後のライブから一年だ。音楽を始めてから、こんなに長いスパンで演奏をしなかったことは本当に久しぶりだ。
最近ある本を読んで、ふと自分にとっての音楽と、それについての向き合い方を振り返ってみた。
元々、自分に音楽の才能があるとは思っていなかったけれど、ここまで辞めずにやってきたのはやはり好きだったから。
と、思っていた。
いや好きなことは好きなのだ。
けれど、常に何か、焦りと自分を自分で鼓舞するような不自然な感情を抱えながら過ごしてきた。
誰に頼まれるでもないのに、誰かのためにやらなくてはいけない。
そんな痴がましさといやらしさがあったような気がする。
それに加えて、のっぴきならない現実からの逃避、自己憐憫、虚栄心などなど。
考えれば考えるほどに、本当に純粋に音楽が好きだったのか?ということまで危ぶまれてきた。
自分の内側に向かって問いかける。
そうしたら、「自分のために歌えばよい」という答えが得られた。
今まで嘘を歌ってきたつもりはないが、誰かに評価されるのを恐れて本当の表現ができなくなったこともあったかもしれない。
つまり好きだったはずの音楽で、一番自分をないがしろにしていたのだ。
自分のために歌って、自分を愛する。
自分のための音楽。
自分が在っての音楽。
そこからまた、再出発したい。
ありがとうございます。
2020-08-09 Sun
人は自分で思ったことを言うたびに、思いがけず、思った通りに、自分ではない誰かを勇気づけたり、傷つけたりしている。自分の中の真実と、誰かの真実は違っていて、時に分かり合えないこともある。
相手を困惑させることを覚悟で、それでも自分の信じる想いを伝えることは、裏を返せば全人類60億マイナス自分をそっくりそのまま信じているからではないか。
自分の意見で誰かを変えようとするのではなく、あくまで良心に従い思ったことを表現する。
それが誰かを傷つけることになるかもしれないリスクを孕んでいても、自分の思いが愛に基づいていることを確信できれば、それは60億分の1の立場としては間違っていない思う。