2020-05-29 Fri
窓を開けているとカッコーが鳴いている。ぼーっと聴いていたのだけれど、ふと疑問がよぎった。
カッコーはその名の通り、「カッコー、カッコー、カッコー」という具合の鳴き声であることは言うまでもない。
しかし、彼らは一体どのタイミングで連呼しているのだろうか?
音楽的にいえば、拍子というものにはいわゆる「表拍子・裏拍子」があるのだけれど、どちらにタイミングを合わせて鳴いているのだろうか?
例えば4拍子であれば、「イチ・ウン・ニ・ウン・サン・ウン・ヨン・ウン」というような基本的なリズムの取り方があって、表拍というのは「イチ・ニ・サン・ヨン」のところ。裏拍というのはその後の「ウン」という休みと捉えられるところ。
「表拍子」であれば、「カッコー(イチ・ウン・ニ・)・ウン・カッコー・(サン・ウン・ヨン)・ウン」という具合だ。
「裏拍子」であれば、「イチ・カッコー(ウン・ニ・ウン)・サン・カッコー(ウン・ヨン・ウン)」という具合に。
※( )のところでカッコーと鳴っている。
手を叩いて拍子を取るとすれば、「表拍子」は、手を叩くのと同時に鳴き始めるという事で、「裏拍子」というのは、手を叩き終わった後のところで鳴き始めるというイメージである。
もちろん「表拍子」の方が容易であり、「裏拍子」で合わせるというのは技術的には表拍に合わせるよりもやや高度な技術である。
そして愚生としては、カッコーは「裏拍子」を頭に取って鳴いているとずっと思い込んでいたのだ。
しかし、カッコーが果たしてそのような小粋なノリで鳴いているのかという根本的な疑問が、この世に生を受けて初めて頭の中に立ち上ってきた現在(いま)、軽度のパニックが愚生を襲った。
いやカッコーは表も裏も意識せず、何となく鳴いてきたに違いない。
そうだよ、だって鳥だもん。
いや個体によって、人間のようにリズムの取り方が違うのではないか。
兎に角、これまでカッコーに合わせて、脳内においてコール&レスポンスを「裏拍子」で行なってきたこちらの立場はそもそもどうなるのだ。
カッコーさん「カッコー」
愚生「カッコー!」
カッコーさん「カッコー」
愚生「カッコー!」
カッコーさん「カッコー」
愚生「カッコー!」
Endress…
当方はカッコーさんがどういったノリでリズムを取っていようが、脳内コール&レスポンスは裏拍子で行く所存だ。

「神々しい狐の嫁入り。このあとおもむろにカッコーさんは鳴き始めた。」
2020-05-28 Thu
東京を出てから一週間と少しが経った。ここは本当に静かだ。
昼間に聞こえる音といえば、隣の葡萄畑で作業するおばちゃんが聴くラジオの音声くらいだ。
夜は静寂という言葉が嘘臭くない。
静寂の海の上に浮かぶ明かりと音の島々。
そこには1日ねぎらう団欒の夕べがあるのだ。
こちらへ来てから、東京で作っていた曲を概ね完成させた。
音楽は、その土地の匂いや空気というものを反映することができる。
勿論、そういった外的な事象に(敢えて)左右されないという立場の人もいるかと思うけれど。
自分の場合は、音のほかに詞があるので、あまりそれらに寄り添い過ぎないように注意する。
特に詩については、必要な気がする。
かといって意識的に言葉を取捨選択して書くこともないのだけれども。
例えば一つの街を表現するときには、どれくらいの規模の街で、海が近いのか山が近いのが、地形がどうなっていて緩やかな坂が多いのかその逆なのかなど、そういった情景を単に書き連ねるのではなく、それらの情景を聴く各々が自ら「想起」するような体で書くのがよいのではないか。
「坂を登っていく」より「平らじゃない道をいく」という仕方のほうが文体として面白みが増すような気がするし想像の選択肢も拡がってくる。
兎にも角にも、近頃想う表現の理想としては、「何だかよく分からないんだけど、なんだか、なんとなく、いいな。」という所に落ち着くものである。
カテゴライズというカッコー良い言葉があるけれど、自分自身や聴き手が明瞭に分類できない不可解なものこそ、表現の触手を伸ばす鍵になるのではないかと思います。