2019-08-31 Sat
目的地を持つ事で、そこに到達するための道がうまれる。それは見知らぬ誰かが丁寧に敷いてくれるのかもしれないし、自分の手で、爪に砂利を食い込ませながら切り開いていくのかもしれない。
道は目的地の分だけ存在し、その上で感じる喜怒哀楽の分だけうねっていく。
現在地と目的地を結ぶのが道の役割だ。
いくつも伸びる道を同時に進んでいくこともある。
山に向かう道は、これから雨になりそうだから、登山口の手前でキャンプして明日に備える。
海へ向かう道は、なだらかな曲線を描く通りをゆっくり降ればいい。
街へ向かう道は、いつだって渋滞しているけれど、久しく聴いていないCDを沢山持ってきたから当分飽きる事はない。
それぞれの道をそれぞれの自分がペースを保ちながら進んでいく。
どれか一つ、思うような目的地に到達できればラッキーなんじゃないかな。

2019-08-25 Sun
人が旅に出たくなるのは何故だろう。例えば、日常のしがらみから抜け出して解放感を手に入れたい。
実際には、そこから完全に逃げ切る事は出来ないけれど、たとえ一瞬の間でもあらゆる物事に縛られない「自由である私」というものを感じてみたい。
そんな想いが人を旅に駆り立てるという動機の一つではないか。
あらゆる旅から帰途に着く時、多少なりとも切なさが募るのは避けがたい。
旅が始まった瞬間から先延ばしにしてきた通過儀礼のような。
それは「自由である私」から「自由ではない私」への帰還である。
そんな白々しい事は誰だって分かった上で、旅に出るのだ。
そもそも日常生活において基本となる「自由ではない私」とはいったい何者なのか。
シンプルに考えてみる。
自由ではない、というのは自分の本意とする行動が制限されている、言動が抑制されている、時間的に拘束されている或いは自らこれらを課している事等々が挙げられる。
こういった自らも含めた私に対する抵抗力を形成するものは何だろうか。
義務的な仕事だろうか。
家族や友達、恋人、属している団体やサークルや小規模なグループにおける煩わしい人間関係だろうか。
それらにまつわる金銭的な問題であったりもするだろうか。
旅によって、日常生活のエリアと遠く離れた場所に身を置き、実際的な「距離」を設ける事で、様々な抵抗力から擬似的に抜け出したように自分で自分に一種のマインドコントロールをかける。
悪い事でなはい。
それは気の触れたような現代社会において、休息として必要であり、旅で得られる新しい人々との交流や初めて触れる見聞、また自分の心に内在していた自分自身が気付かなかったり忘れていた想いに気づく事も出来るかもしれない。
それらによって日常生活に戻った時に新しい物の見方も出来るかもしれない。
但し根本的なところの「自由である私」を獲得できるかどうかは別だ。
それでも旅の帰着点には、チャンスがある。
反りの合わない知人との付き合い、属する組織内での束縛、経済システム、社会制度や法律に縛られている限り自由などあり得ない、これらから離反・独立し、何者にも依存しない生活環境を構築する事が自由への第一歩である。
という事が「自由である私」を獲得するための必須条件ではない事に気付くチャンスがある。
「自由である私」の獲得に最も必要なものは、自分を取り巻く外的な要因とされる事柄を除いた、自分の心にある。
当たり前すぎて反吐がでるような陳腐な答えだが、真っ当なことは往々にして嘯いて聞こえるものだ。
つまり私がどこまで自由である私を日常生活において認識できるか。
95%の嘘は嘘のままだけれど、100%の嘘は真実だ。
自分が背負う生活環境を外的要因を含めた総体的な状況としてだけで見ると、お金もない、休みもない、行きたいところもいけない、言いたいことも言えない、極めて悲観的な境遇に映るかもしれない。
しかし、刹那的な行動や言動にフォーカスしていくと極めて自由度が高いと言える。
デスクの前に、厨房の前に、交差点に、教室に、来る日も来る日も立ち続けなければならない境遇は不自由だ。
しかし、左目にも右目にも映す景色は自由だし、両手を時折組んでみることもほとんどの人にとっては自由だ。
瞬きは自由だし、聞こえてくるどの音に集中するかも自由だ。
何より思考は自由だ。
何を考えたってよい。
逆に言えば刹那的な自由な発想の意識的パーツの貼り合わせが日常を形作っており、それらは外的要因に侵食される恐れは少ない。
外的要因がフォーカスした刹那的行為にまで及んできたら、俯瞰的に、合理的に物事を考えようとする事を一度放棄してみるのもいいかもしれない。
だって疲れてしまうから。
自由であるはずの行為にどれだけ私が自由を与えられるか。
それが旅の終わりがくれるチャンス。
そんなチャンスが欲しいから、人は旅に出るのではないか。
