2019-12-20 Fri
東京近郊の町へ出掛けることが多い。山や海、農村風景に心を癒される。
空気も良いし、水もきれいだ。
こんな所に住んでみたい。
もう都会はたくさんだ。
。。。
。。
。
ここからが大事にしたい気持ちである。
都会の暮らしに疲れて、救いを求める想いで郊外へと居を移す。
それも一つの選択における重要なポイントだ。
実際、都会というのはある種の狂気の中で生きているようなものだ。
道はアスファルトとコンクリートに埋め尽くされ、木々はレンガで囲まれた道路と歩道の緩衝用ツールとして「機能」させられている。
車から出る排気ガスや工場の煙は、僕たちの体の中に常に侵略者として受け入れられてきた。
生まれた時から。
目に見えない電磁波は、完全無欠な細胞を小刻みに揺さぶって摩耗させていく。
生きることに代償を払わなければならない。
それは自分たちが作った幻想の貸しなのだけれど。
今できることは、今在る場所を愛する事から始めたい。
ネガティブな想いで行動を起こした時間軸には、モラトリアムの要素が含まれてしまうのではないか。
先延ばしにしてしまった本当の自由。
期限付きのパライソ。
これから何処へ向うのか、わからない。
それでも魂は、避難民ではなく、開拓者としての僕たちを欲している。

2019-12-07 Sat
hummingbird。エレキからアコースティックに持ち替えて、初めて購入したギターだ。
かれこれ10年ほど、今でもライブのメインギターとして使っている。
先日、安曇野で行われたライブイベントの出店者さんで、東京の学芸大学から来られた珈琲屋さんと出会った。
「hummingbird coffee」
何となく、親近感を持った。
話してみると、オーナーは物腰の柔らかい素敵な方だ。
珈琲と人と音楽に対して、丁寧に向き合っている人なのだなと感じる。
リハーサル前に頂いた一杯の珈琲で、心と体が温められた。
それから暫くして、学芸大学のお店を訪れた。
時の流れを感じさせてくれるアパートの一角にあるカフェ。
広くて狭い東京の街で、きちんと僕の身一つ分のスペースを確保して居てくれたかのように、居心地よく、すっぽりと体が納まった。
店内では、オーナーの縁あるミュージシャンの音が、珈琲から立つ湯気の間を糸を引くように静かに流れていた。

2019-08-25 Sun
人が旅に出たくなるのは何故だろう。例えば、日常のしがらみから抜け出して解放感を手に入れたい。
実際には、そこから完全に逃げ切る事は出来ないけれど、たとえ一瞬の間でもあらゆる物事に縛られない「自由である私」というものを感じてみたい。
そんな想いが人を旅に駆り立てるという動機の一つではないか。
あらゆる旅から帰途に着く時、多少なりとも切なさが募るのは避けがたい。
旅が始まった瞬間から先延ばしにしてきた通過儀礼のような。
それは「自由である私」から「自由ではない私」への帰還である。
そんな白々しい事は誰だって分かった上で、旅に出るのだ。
そもそも日常生活において基本となる「自由ではない私」とはいったい何者なのか。
シンプルに考えてみる。
自由ではない、というのは自分の本意とする行動が制限されている、言動が抑制されている、時間的に拘束されている或いは自らこれらを課している事等々が挙げられる。
こういった自らも含めた私に対する抵抗力を形成するものは何だろうか。
義務的な仕事だろうか。
家族や友達、恋人、属している団体やサークルや小規模なグループにおける煩わしい人間関係だろうか。
それらにまつわる金銭的な問題であったりもするだろうか。
旅によって、日常生活のエリアと遠く離れた場所に身を置き、実際的な「距離」を設ける事で、様々な抵抗力から擬似的に抜け出したように自分で自分に一種のマインドコントロールをかける。
悪い事でなはい。
それは気の触れたような現代社会において、休息として必要であり、旅で得られる新しい人々との交流や初めて触れる見聞、また自分の心に内在していた自分自身が気付かなかったり忘れていた想いに気づく事も出来るかもしれない。
それらによって日常生活に戻った時に新しい物の見方も出来るかもしれない。
但し根本的なところの「自由である私」を獲得できるかどうかは別だ。
それでも旅の帰着点には、チャンスがある。
反りの合わない知人との付き合い、属する組織内での束縛、経済システム、社会制度や法律に縛られている限り自由などあり得ない、これらから離反・独立し、何者にも依存しない生活環境を構築する事が自由への第一歩である。
という事が「自由である私」を獲得するための必須条件ではない事に気付くチャンスがある。
「自由である私」の獲得に最も必要なものは、自分を取り巻く外的な要因とされる事柄を除いた、自分の心にある。
当たり前すぎて反吐がでるような陳腐な答えだが、真っ当なことは往々にして嘯いて聞こえるものだ。
つまり私がどこまで自由である私を日常生活において認識できるか。
95%の嘘は嘘のままだけれど、100%の嘘は真実だ。
自分が背負う生活環境を外的要因を含めた総体的な状況としてだけで見ると、お金もない、休みもない、行きたいところもいけない、言いたいことも言えない、極めて悲観的な境遇に映るかもしれない。
しかし、刹那的な行動や言動にフォーカスしていくと極めて自由度が高いと言える。
デスクの前に、厨房の前に、交差点に、教室に、来る日も来る日も立ち続けなければならない境遇は不自由だ。
しかし、左目にも右目にも映す景色は自由だし、両手を時折組んでみることもほとんどの人にとっては自由だ。
瞬きは自由だし、聞こえてくるどの音に集中するかも自由だ。
何より思考は自由だ。
何を考えたってよい。
逆に言えば刹那的な自由な発想の意識的パーツの貼り合わせが日常を形作っており、それらは外的要因に侵食される恐れは少ない。
外的要因がフォーカスした刹那的行為にまで及んできたら、俯瞰的に、合理的に物事を考えようとする事を一度放棄してみるのもいいかもしれない。
だって疲れてしまうから。
自由であるはずの行為にどれだけ私が自由を与えられるか。
それが旅の終わりがくれるチャンス。
そんなチャンスが欲しいから、人は旅に出るのではないか。
